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ウォーキングの効用と2015年6月の休館日

自分が結婚してから、ひとの結婚式が楽しくなりました。むつみです。

まずは2015年6月の休館日のおしらせから。コチラ。

 

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6月

2日(火)、16日(火)

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1506

 

 

私の家の前を毎朝多くの若者が歩いてゆきます。近くに芸術系の専門学校があるからです。

でも、2年ほど前から、徒歩ではなくタクシーの利用率が高まっている気がします。

駅やバス停からも徒歩圏内の閑静な住宅街を、学生同士がタクシーを乗り合って通学する・・・。

年寄りくさいことを申し上げますが、あまりよい傾向とは思えません。

 

(なお、以下はほぼ内田樹さんの受け売りです。)

 

彼らにも言い分はあるでしょう。

「あのさあ、自分のお金を使って通学という無駄な時間を省略して、さらに疲労も最小化しているわけ。つまり自分のための時間も勉学のモチベーションもより確保できるのね。つーか、むしろ効率的でよくね?」

ごもっとも。

 

ただ、その効率性は、自らの芸術的感性の育成を決定的に損なう道なんですよね。気づいてないと思うけど。

 

 

義務教育では、先生が生徒に徒歩による通学を強制します。(私のときはそうでした。)

先生に「なぜ」と問うと、危険防止や公平性のためだとか、「ルールだから」と言うでしょう。嘘ですよ、それ。

嘘は言い過ぎか。でも真意は確かに別にあります。

ところが、真意を言ったところで子どもには皆目わかりません。だから言わない。

あえて言おうとすると、子どもにわかるレベルの表現となります。つまり危険防止や公平性やルール遵守です。

 

ちんたら歩く中で感じる光、影、雨、寒暖、音、行き交う人の表情、会話。

これらは、毎日同じことが繰り返し起きているように見えますが、実は宇宙開闢(かいびゃく)以来、空前かつ絶後な出来事です。同じに「見える」だけで別の出来事、そうですよね。

間断なく失われつつ同時に創造される一期一会な天然の変化の中を、何度も執拗に歩くこと。子どもの五感を育むのは、この経験のみと言っても過言ではないでしょう

 

子どもたちが周囲の変化を意識しているかどうかは、あまり問題ではありません(むしろ、代わり映えしない退屈な風景と思っていそうですが)。

でも無自覚でも構いません。「一瞬ごとに変化する天然のシグナル」を浴び続けることが大事なのです。

 

個々のシグナルはとるに足らない情報です。個別で見ると無駄知識。

しかし、10年、30年と受信を積み重ねたある日、私たちは、自身の内にある知識と感性のすべてが意味を持ってつながり、無限ともいえる智慧が湛(たた)えられていたことに、突然気づきます。

これまで意識しなかった日常の一コマ一コマが、自分の世界の見え方を、若いときには想像もしなかったような仕方で豊かにしていたことに驚愕するのです。

豊かに「する」のではありません。豊かにして「いた」のです、そのことを雷鳴が轟くがごとく、唐突に理解します。

つまり前もってわかるものではない、ということです。

 

でも、こんなことは子どもにはわからない。言っても真意は伝わらない。

それはそうでしょう。だって「若いときには想像もしなかったような仕方」で理解しているんですから。

 

だから、大人は子どもにとって無理解なことを言う存在になりがちだし、それでいいのです。

子どもの「大人はわかってくれない」という怒りと失望の叫びは、大人の「この子はいずれ今の私の気持ちがわかる」という愛と祝福の言葉と表裏一体です。

 

 

さて、件の学生たちですが、彼らはその名が示すとおり学びの徒です。

 

学びとは今の自分を超越していくことです。

それは考えもしなかった価値観や知見と出会い、新しい思考法や実行法を知ることです。

「学ぶ前には無価値だと思っていたことが、学んだあとには価値であったとわかる」ことです。

 

だから学生とは、「私は、私の手持ちの道具では到達できない境地への到達を切望する」と声高らかに宣言する者のことなんですね。

 

その学生のみなさんが、タクシーに乗って「私(たち)だけ」の時間を増やすことにご執心するのは、ちょっともったいない気がします。

学生さんはできる限り自分以外のもの(者、物、存在)とふれあう時間を増やすほうがいいんじゃないかな。

 

 

同じ理由で、子どもの外遊びや他人との関わりを大事にしたいなあと思っています。